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今日も元気(だといいな)

うちの店、そして「出資者」の話

昔、私の両親はJR柏駅西口の、いわゆる繁華街の少し奥まったところで床屋をやっていた。父は元々ある実業家に気に入られ「俺の会社で店を持たないか?」と都内の店で誘われていわゆる社員向け福利厚生のサービスとして彼持ちで店を会社内に開いた。実際のところ、彼の頭専用の理容師だったようだけれども、70年代中頃に「俺は次の選挙に出馬することに決めた、この会社は息子のものになるがお前をどういう扱いにするかわからない。だからこれで独立してくれ」と退職金をはずんでもらったらしい。それで父は柏に店を出し、2009年に死ぬまで店に生きた。

立派な話、なのだが、どうもスキャンダルがかなり激しい人だったようで、私の母は私が政治に触れるのを非常に嫌がった。あらゆる人に「父似だな」と言われたからだろうか。父が亡くなって久しい今、彼が生きているうちに頭を下げに行きたいのだが彼は息子さんとのトラブルを発端に離婚もしてしまったという話で、更にほかの現職議員さんの息子さんを養子にしたという。ここで自分が出ていくと、はっきりいってややこしすぎる。理由は後述する。不義理はわかっているけれども、自分は女であり、そちらのスキャンダルも耳にしているためなんとも難しすぎて判断を投げてしまった。接触が、吉と出るか凶と出るかなどまったくもってわからない。しかも悪い方に出るのではないかと私は思っているのだから。

私はあの店で、揺れるレースカーテンを鏡で眺めながら、三つ並んだタカラの椅子のうち一番右の椅子に座って宿題をしたり、お客さんの残していったタオルを洗濯し干してたたんだり、蒸しタオルを作ったりして過ごしていた。4歳から、日本をいったん離れた22歳まで、ほぼ毎日。夜遅くまで店を手伝っていた生活はひどく体に堪えた。しかし無事に成長できたのは、彼や、父、母、お客さんたち、同じ商店街の人々のおかげだった。父の人生をすくいあげたのは確かに彼である。

彼は息子さんに自社のカネの用途を細かく出せと要求されたのだと聞いたが、おそらくは彼がすくいあげたのはうちの父だけではなかったはずだ。愛人たちの影もあったのだろうが、ルールに基づかない退職金、たぶん、まちがいなく彼はそれらに触れさせないようにしたのだろうと思っている。

父は、あの会社にいたときに誰々を働かせたいのだが、とか、そういった采配をしていた彼の様子を話したことがあった。父は何ヶ月か若い理容師とそこで働いていたらしい。そう、彼はおそらくそのようなことをし続けていたから、「どこにいったかわからないカネ」が相当に発生していたはずである。

正しさとはなんだろうな、と考え込んでしまうような、"it's positive(間違いない)" な話だ。

とにかく私は、私たちは、彼の家族を犠牲にした…。

キラキラアクセサリーがほしい!

今週のお題「ちょっとした夢」

 

初めて「お題」に挑戦します。昔懐かしいMEMORIZEを今も思い出します。

さて、私のちょっとした夢は、アクセサリーを買いそろえることです。

 

八端十字架のK18のペンダント。私はサイズを気にしなくていいからって何本もネックレスを持っていましたが、それらは子どもたちにあげてしまうためのものです。私一人のための金色のクロスペンダントが必要です。

イエローゴールドのシンプルな指輪。石なんかついてなくていいんです。右手の薬指には今ステンレスの指輪をつけていますが、やっぱり金の指輪は特別ですね。金の、円状のものは永遠を意味するから…品がないって?私は古めかしいものが好みなんです。

プラチナのアンクレット。私の周囲には女性があまりいなくて、一番精神的に近づいた元彼の妹さんがずっとつけていたのを非常に印象的なものとして覚えています。ここ最近、連絡を取らなくなりましたが毎年春節には「新年快樂!」とメッセージを交換しています。

ほかに、天然石の中に「ルチルクォーツ」という風変わりなものがあり、立体的に見えるのが面白くて通販サイトを眺めています。ツルンとした透明な中に金色の植物(チタン)が直線的に生えているように見える、確かに天然石でなければ目にすることのない品物です。中にオレンジ色が生えているものもあり、物珍しくてちょうどいいペンダントトップが入荷されるのを待っています。

 

金属が最近高価になってしまって驚いています。もうこれらも「ちょっとした夢」として語るにはあまりに遠いですね。どれも自力で手に入れたいという気持ちが強いので、地道に貯金します。

優生思想は、もう結果を見たじゃないか

なんでそんな発想を今頃?というのをいまだに目にする。

Threadsを読んでみると、なんだかどうも怖い発想というのが組み込まれている人は珍しくもないことがよくわかる。どうやらSSDやHDDを持っている人は子どもを作るべきでないなどと書いてあったような気がしたのだが、これは私の読み間違い。なにやら発達障害を持っていたりその傾向のある人は「子孫に現れる遺伝要因を消すために子孫を作るのを控えるべきだ」という話らしい。

何かの形質の遺伝子を持っていることと、それが顕在化するかどうかはまったくもって別の問題である。多くの人が小さな要因を秘めていて、組み合わせや環境などでスイッチが入ることで現れる。そうでもなければ、些末な利き手の左右やその間のグラデーションは一体どうやって「大多数は確かに右利きだがポツンと左利きや両利きが現れる」などということがありえるだろうか。大昔の人はこんなどうでもいい左利きのことを「障害者」と呼んで排除しようとしたことを忘れてはいけない。そんなことで抹殺されてはたまったものではない、しかも「あなたは違うけれど家族や祖先にいるでしょ」という理由で見た感じ普通の人々も一族郎党巻き込まれるわけである。

もうそんなものは既に通り過ぎて、現在国が賠償をしている段である。「優良な子どもを残すために」「苦労を減らすために」などという発想はその効果に見合わない犠牲を必要とする。なぜかって、もう2000年ほども前の聖書に残された文面を言葉通りに読むのが正しいだろう。「体は、一つの部分ではなく多くの部分からなっています」「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」

時々、宗教は理想を書いていると見る人がいるようだけれども、この点については現実、まさに現実で読み手をぶん殴っているようにしか私には思えない。遺伝要素があるからといって、それが見えるように現れている人を妊娠出産から追い出せばいなくなるなどという夢想を敢えて続けようというのは悪意があるようにしか見えない。夢を見ないで現実を見よう。

引用箇所は新約聖書新共同訳コリントの信徒への手紙一から。

大昔の暑中見舞いで文化の衝突

ごめん、サミュエル・ハンチントンの話ではないんだ。

なんだって?!と思うような出来事が今までにたくさんあった。一番びっくりしたのは、大学時代の同窓の奥様の行動である。同窓はタイ人男性で、奥様はインドネシア人女性、後者がプロテスタントの所属だったのでこの友人は仏教からキリスト教に改宗した。彼は私が当時ルター派の教会に足しげく通っていたことを知っていたので結婚して改宗したと、そしてお子さんも授かり、昔本人が悩んでいた「自分の家庭を持ちたい」という願いが叶ったことを私も喜んだ。彼もまた、親子間の問題に苦しんでいた。

私はいわゆる古いタイプの人間だから、季節のお便りというものを書いていた時期があった。2007年ごろまでだっただろうか。もう、相当昔のことになってしまった。

が、それを見たあの同窓の奥様は「どういうつもり?」とメッセージを送ってきたのだった。2019年の出来事である。そんなに昔の儀礼的な手紙に何が?という話である。そんなお便りは毎年何十枚と送ったし、君はもしかしてクリスマスカードを送ったことも送られたこともないのか?と聞き返すとメッセージはすぐブロックされた。

恐ろしいのは、彼らは2009年頃に結婚してそれ以来ずっと日本に住んでいるという現実だ。なんの冗談だろうね?どうにかして日本文化に適応してもらいたいものだ。

ところで、2001年ごろから親交のある台湾人たちは今も漢字の国らしい達筆な文字で年賀状を送ってくれている。なんだろう…もう少し、漫画やアニメでああいったエキゾチックで古めかしい、しかし日常に持って行ってもいいはずの文化についても広めてくれるといいんだけれど。

サラーム海上さん、お疲れ様!

www.chez-salam.com

このお知らせを見て、今非常に落ち込んでいます。私の音楽フォルダには約3年分のOriental Music Showの録音データが入っているし、これからこのタイトルで新しく追加することができないと思うと言葉になりません。

 

でも、とにかくお疲れさまでした。スポンサーなしで8年も…すごいことです…。「始まりあれば終わりある」、もうひとつの始まりがあるように心から願っています。

わざわざUNIQLOへ。

2001年、私は初めてUNIQLOの店舗を訪れた。その時私を連れて行ったのはとある韓国人男性(1972年ごろの生まれ)で、「とても安くて、丈夫で、季節が変わったら捨ててもいいくらいだ」と言っていた。NORTH FACEの立派なカジュアル着やら、日本円だと100万円くらいした、とかいうスーツなどがあるし、もう手持ちの服が十分そこにあるのになんでわざわざそんな安物を買うのだろうと不思議に思っていた。私は彼が何を見ていたか、知らなかった。

 

彼は韓国で相当に裕福な家庭の出身だったらしく、規制というかほぼ禁止されていた日本語の歌曲、漫画、アニメ、ほかに日本の2chといったインターネットをよく知っていた上、アメリカ文化にも通じておりApple Computerと表示されていたあの美しいスケルトンのディスプレイやパソコンも持っていた。

 

私たちの知っている「日本」では思いも寄らないことだけれども、ほかの国では政府が国民の触れるものを決定する。しかも、政府や大統領、高官への批判をすればお縄になる有様というのも残念ながら「よくあること」だ。日本ではよほど高レベルな情報でも持っていなければ外国に精通する人間を「あいつはただの変わり者だ」と見なすが、彼らは「危険分子だ!」となるわけである。日本でもこれはあるのだが、社会がヒステリックになると出てくる持病のような感覚であり、普段は外国(風)のものを口にしては満足に舌鼓を…といった牧歌的なムードだ。間違いなくこの温度差は恐怖の対象になっていることを、日本にいる日本人は自覚しておかなくてはならない。脅威を感じれば敵対的な関係を引き起こすのは当たり前だから。

 

ところで、富裕層の韓国人男性がわざわざチープな服を好んで着ていたのには本人の言い分がある。「高価な服を着ていると、女の人が結婚したいってたくさん寄ってくるんだ。それが、ちょっと怖い」と。当時の私は子どもだったので、高い服と結婚の繋がりが見えていなかった。しかし、どうも高価な服を着ていないと見下されるらしいと理解し始めた頃だった。しかし、私だって1万5千円ほどで買ったリーバイスを履いていたのにほかの女子学生には「田舎っぽい」とダメ出しされていた。501ボタンフライだぞ!なんて思っていたのだけれども、とにかく実際に遠方から「上京」してきた本物に「田舎っぽい」と思われていたのだからそうだったのだろう。もしかしたら彼女たちの地域でデニム調やカントリー風のスタイルが流行っていたのかもしれない。残念ながら関東、東葛飾地域からほとんど一歩も出ずに暮らしていたのでわからない。そういう意味では、私が見識の狭いヤツだと思われてもおかしくはなかったから、反論もしなかった。

 

大学を卒業してもうする20年が経とうとしている。UNIQLOはずいぶん変わった。どれを選んでもサイズが大きくて、諦めて手持ちのTシャツの上に暖色系の柄シャツを羽織ったりしていた面影はすっかり消えて、からだにフィットするような生地も扱っている。帽子があまりなくてよそに行く、なんてこともないくらい、バリエーションも増えた。何より、メンズ服にも明るい色がある。とてもいいことだ。

 

そうそう、あの友達は、相変わらず日本にいる。少しずつユルくなっていく社会を私たちは喜んでいる。

私たちの好きだったラルクアンシエルとソフィアを聴きながら

昔のことを考えたり思い出したりする時に、もうこの世にいない親友のことは一番近い同性の子として大きな存在だったことを実感する。

 

寄りかかりたい、ああ、いない…一人で倒れてぐしゃぐしゃになったこの長い髪、誰のために伸ばしてると思ってるのと思いながら(あの子はいつ手術になってもいいように髪を短くしていたから、代わりに伸ばしてよという約束をした)、私もまた年老いて弱り始めている。あの子は早く死んだお母さんとお兄ちゃんに会いたいと言って、そのうち私たちは頑張っておとなになって、あっという間にあの子だけ死んでいった。私も早くあの子に会いたいと言って、役割を演じ終えた時正しくそのようになれたらいいなって思ってる。

 

生きるのだけで大変な相手に「一緒に死んで」って言われた3回のうちどれかで応じなかったんだから、正しくない方法で人生を終えたら永遠に呪われるね、私。

 

神様は、私たちを会わせてくれるだろうか?