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今日も元気(だといいな)

わざわざUNIQLOへ。

2001年、私は初めてUNIQLOの店舗を訪れた。その時私を連れて行ったのはとある韓国人男性(1972年ごろの生まれ)で、「とても安くて、丈夫で、季節が変わったら捨ててもいいくらいだ」と言っていた。NORTH FACEの立派なカジュアル着やら、日本円だと100万円くらいした、とかいうスーツなどがあるし、もう手持ちの服が十分そこにあるのになんでわざわざそんな安物を買うのだろうと不思議に思っていた。私は彼が何を見ていたか、知らなかった。

 

彼は韓国で相当に裕福な家庭の出身だったらしく、規制というかほぼ禁止されていた日本語の歌曲、漫画、アニメ、ほかに日本の2chといったインターネットをよく知っていた上、アメリカ文化にも通じておりApple Computerと表示されていたあの美しいスケルトンのディスプレイやパソコンも持っていた。

 

私たちの知っている「日本」では思いも寄らないことだけれども、ほかの国では政府が国民の触れるものを決定する。しかも、政府や大統領、高官への批判をすればお縄になる有様というのも残念ながら「よくあること」だ。日本ではよほど高レベルな情報でも持っていなければ外国に精通する人間を「あいつはただの変わり者だ」と見なすが、彼らは「危険分子だ!」となるわけである。日本でもこれはあるのだが、社会がヒステリックになると出てくる持病のような感覚であり、普段は外国(風)のものを口にしては満足に舌鼓を…といった牧歌的なムードだ。間違いなくこの温度差は恐怖の対象になっていることを、日本にいる日本人は自覚しておかなくてはならない。脅威を感じれば敵対的な関係を引き起こすのは当たり前だから。

 

ところで、富裕層の韓国人男性がわざわざチープな服を好んで着ていたのには本人の言い分がある。「高価な服を着ていると、女の人が結婚したいってたくさん寄ってくるんだ。それが、ちょっと怖い」と。当時の私は子どもだったので、高い服と結婚の繋がりが見えていなかった。しかし、どうも高価な服を着ていないと見下されるらしいと理解し始めた頃だった。しかし、私だって1万5千円ほどで買ったリーバイスを履いていたのにほかの女子学生には「田舎っぽい」とダメ出しされていた。501ボタンフライだぞ!なんて思っていたのだけれども、とにかく実際に遠方から「上京」してきた本物に「田舎っぽい」と思われていたのだからそうだったのだろう。もしかしたら彼女たちの地域でデニム調やカントリー風のスタイルが流行っていたのかもしれない。残念ながら関東、東葛飾地域からほとんど一歩も出ずに暮らしていたのでわからない。そういう意味では、私が見識の狭いヤツだと思われてもおかしくはなかったから、反論もしなかった。

 

大学を卒業してもうする20年が経とうとしている。UNIQLOはずいぶん変わった。どれを選んでもサイズが大きくて、諦めて手持ちのTシャツの上に暖色系の柄シャツを羽織ったりしていた面影はすっかり消えて、からだにフィットするような生地も扱っている。帽子があまりなくてよそに行く、なんてこともないくらい、バリエーションも増えた。何より、メンズ服にも明るい色がある。とてもいいことだ。

 

そうそう、あの友達は、相変わらず日本にいる。少しずつユルくなっていく社会を私たちは喜んでいる。

私たちの好きだったラルクアンシエルとソフィアを聴きながら

昔のことを考えたり思い出したりする時に、もうこの世にいない親友のことは一番近い同性の子として大きな存在だったことを実感する。

 

寄りかかりたい、ああ、いない…一人で倒れてぐしゃぐしゃになったこの長い髪、誰のために伸ばしてると思ってるのと思いながら(あの子はいつ手術になってもいいように髪を短くしていたから、代わりに伸ばしてよという約束をした)、私もまた年老いて弱り始めている。あの子は早く死んだお母さんとお兄ちゃんに会いたいと言って、そのうち私たちは頑張っておとなになって、あっという間にあの子だけ死んでいった。私も早くあの子に会いたいと言って、役割を演じ終えた時正しくそのようになれたらいいなって思ってる。

 

生きるのだけで大変な相手に「一緒に死んで」って言われた3回のうちどれかで応じなかったんだから、正しくない方法で人生を終えたら永遠に呪われるね、私。

 

神様は、私たちを会わせてくれるだろうか?

体調悪い。

今日こそは色々やろうと思っていましたが、どうも体調が悪くだるくて眠いし更に体温を測ってみると微熱が出ているのでこれ以上苦しみたくないがために寝て過ごします。

 

ルビー欲しいな、とずっと天然石屋さんをチェックしてました。いや、石が小さくてもいいからやっぱりジュエリー屋さんで買います。憧れだしカットそのものも大事です。人差し指につけたいです。とうとうタンザナイトは諦めました。お花モチーフもいいし一粒もいいな。頑張って貯金続けます。

みんな同じじゃない、それを排除しないことの帰結

今のところ「都会は楽しい」「都会は自由」とか言われてますけど、実際のところ、今後は大昔の都市のように「都市にいるのだから、それぞれ大きめの我慢を強いられる」性質を持ち帰ってくることになります。しかも、大昔と違って「排除しない」という現代的理想を叶えなくてはいけませんからね。何が自由なのか、何を我慢しなくてはならないのか、あと簡単に扇動されないだけの知性が必要です。

みんな同じではないので、都市を棄てて別の種類の自由を求めてよそを選ぶ人も増えることでしょう。都市だっていつまでも同じカタチの都市ではいられないかもしれません。

髪の毛の葛藤

そんな簡単にやめられるか!バカ!

 

ってことがいくつかあります。以前書いた日記や日々のダイアログもそうですが、今日は気が向いたので髪の毛をぼさぼさ伸ばしまくることについて書きます。

 

私はもう41歳です。普通はなんか色々な理由で髪の毛を2ヶ月に1回美容院で整えるショートヘアか、肩くらいまでにして後ろで結ぶかっこいい姉御になるはずなんですが、私の場合11年か13年ほど前に死んだ一番仲のよかった友達との約束を一体いつ終わりにすればいいのかよくわからなくて伸ばしっぱなしにしています。

 

その子はいつもショートヘアにしていました。さらっさらで、絵にかいたような控えめな美しい女の子だったんですよ。自分が死んだら棺に入れて一緒に焼いてもらうものを一通りいれたファイルの中から彼女の写真を出すと、真っ白な肌に一重のやわらかいまぶた、まっすぐでまるでレースカーテンのような細くツヤツヤのボブの髪、まあ私のような「動物みたい」と言われたぶっとい眉毛、刺さるようなまつ毛(本当に刺さるので困る)、肉々しい二重まぶた、ぎょろっとした瞳とは正反対です。

 

彼女がショートヘアにしていたのは、生まれた時から心臓が悪くていつ緊急手術になってもいいようにという…気の休まらない事情でした。いつ死んでしまってもおかしくなかったので、私は常に後悔のないようにしていました。6月頃、いつも入院検査のためにいなくなり、私は授業をサボって(※小学生です)図書館で「祈りの言葉」を調べてはノートにメモってそれを読むなどしていました。まあ、一番信者さんの多そうなカトリック教会の「天使祝詞」ですかね、あれはまだうっすら覚えています。残念ながらカトリック教会とのつながりはなく、結局ルター派に行って数年後には正教会にふらーっと入り込みました。ちょっとね、大人になってから日本語訳の変遷を見てしまってついていけないと思ったんですよね。物覚えが悪い人間は天使祝詞が3回も訳変更されてるの見たらどう考えても挫折しますって。仏教のお経にカナがふられている本があるのも、最近知ったくらい無知ですからね。私の育ちが悪いだけで、みんな親からしっかり教えてもらったのだとばかり…。

 

まあところで、この髪の毛どうしようかねえ。「私の代わりに伸ばして!」と彼女と約束したのはいいとして、もうそろそろ丸刈り?ベリーショート?にしてもいいのでしょうか。まあ夫に丸刈りは反対されていますが。あと怖いんですけど、この親友の命日と夫の誕生日が同じ日なんですよね。

いてーん

あんまり不便を感じ始めたので、ライブドアブログからはてなブログへ移転しました。特に画像をたくさん置くような使い方をしないので、一番大きな要求としては「スマホでの入力・更新に苦労しないこと」です。

 

今後はある程度長文ならここに流し込みます。もう私はだめかもしれないと思いながら日々生きています。本格的にダメになってきたらSNSをあきらめてブログやてがろぐに文字を流し込んでほかの人の手を煩わせないようにしたいと思います。

忘れちゃうのが惜しいとは思うんだけど(3000文字)

憧れのブログってありませんか?

私が「白背景のシンプルなブログ」にこだわり続けている理由。それは…Rさんの「携帯写影」。http://hemp.blog1.fc2.com

 

今までのタイトル画像も、とってもスタイリッシュ!
http://hemp.blog1.fc2.com/blog-entry-363.html

 

Rさんとの出会いは確か、FC2ブログ以前の「MEMORIZE」時代。

その頃私は学生で、画像がごちゃごちゃした感じのテンプレートが好きで、ついつい「1KBの素材屋さん」でピンク色や水色のチェック模様の背景をダウンロードして使っていました。でも、Rさんは潔く美しく真っ白なテンプレート!非常に強い印象が残っていました。しかも、長文を書きたくてしかたない病気を持つ言語オタクの私とは違い携帯電話で撮影した画像をペタリ、というこれまた更に潔く美しいスタイル。憧れたけど私にはできません…エンピツ( http://enpitu.ne.jp )の「ドロップシャドウ」や「プチアイコン原色」( http://enpitu.ne.jp/tool/design.cgi ここの下の方に見本があります)を使うのが精いっぱいでした。

 

メモライズライブドアに飲み込まれて消滅(ブログ形式になり、元の日記形式が消えたので「消滅」)した後はエンピツ日記を5年から6年利用しました。元の場所に戻ろうか迷いましたが、自分のドメインをGETしたのでもう戻らないことに決めています…もし自分のサイトを維持するのが難しくなったとしても。

 

年単位のログは大事にCD-Rに焼いて、更にクラウドに置いてあります。およそ20年前の、約5年分の日記はあまりにも貴重です。しかし、自分の正気を疑っている理由の一つとして、アナログの手帳にもこまごまと書きつけていたことです。実は…それは、今もなんですよね…大人になってから自分の日記帳だと思っているサイトに書き込む量は減ったものの、いまだにデジタルアナログ両方に書いています。私は本当に正気なのでしょうか?

 

そして子どもたちの存在が親としての自分の収納スペースを圧してきたため、アナログ日記帳を10年連用日記にして4年目です。厚みがさすがに毎日堪えるから、6年後にはきっと5年連用日記を買うことになるかと思います。続ける気なんですよ、私。ただ、持ち歩き用の手帳をB6に格上げしたしもしかしたらそこに全部書けるならそうしようかと考えています。予定が更に増えて、そんなことは無理だろうとは想像がついていますけれども。夫はこんな私に呆れています。

 

私の書きたい欲は限界を知らず、更にFediverseに文字を激しく打ち込むことまで始めました。Twitter/Xの比ではありません。もうここまでくると確かに根本的にRさんのような潔く美しいブログを作るなんて私には無理だったんだなと思わされます。個性、ここまで憧れをひっくり返すレベルの存在感があるんですね。自作サイトやめたいなと思ってもやめられなかったんです、むしろ変な趣味に入れこまなくて済むんだからこのまま続行するのが正しい趣味の使い方なのかもしれません。世の中はそんなこと求めていませんから、私が取りつかれているだけなんですよね、見返りのない狂気の情熱、もうちょっと正気に近かったらもう2つほど言語をマスターして警察か裁判所に貢献するべきですね。中国語学習者として多少は手伝ってるけど、まあ…ぼちぼちがんばります…。クルド語はいいから(除外していいなんて何かあったのか、あてが見つかったのかのどっちかかなあ)もうロシア語とウクライナ語をやってくれとは言われています…なんというか、世の中学校の成績が優秀な人に奨学金をまいてやればいいと思っている人がけっこうな大多数だと思いますが、私はそこまで優秀ではないけれど必要とされる種類の人間のようです。たぶん成績以上に信用度だよなあと思ったりしますね、いわゆるエリートが社会的カルト(宗教に限らず、思想)の手足になっちゃうの、昔からありますから。

 

話が逸れましたね、ごめんなさい。日記っていうのは、その日に何が起きたか、何をしたか、何を見て何を感じたか、に集約されます。一番大事なのは最後の「何を見て何を感じたか」です。いまはストリーミングサービスもいっぱいあるし、そのときでないと見られないもの、聴けないものというものがほぼありません。その時に感じたことと今の自分が感じること、全然違うことがありますよね。それが一番「その日の自分」を表しています。

 

インターネットに触れる以前の自分の行動や感情は繰り返し夢に見ます。幼い頃親が自宅として借りていたボロ屋を退去した後、電気ガス水道全部止まっているにもかかわらずこっそり入り込んでぼんやりしていたのも、言葉にならない思い出です。あの時の自分は手帳にそれを書きませんでした。書けなかったのです、書くためには内容が必要ですが、いまだに言葉にならない経験だったからです。あのとき私は靴のまま上がり、自分の眠っていた部屋や風呂場、日本の古い仕立てのタンス、父のレコードプレーヤー、私はほとんど開けなかった納戸などを見ていました。私のものであり私のものでない場所、そしてこの経験は親の店を閉めて片付けてもらうために頼んだ業者さんが引き払った後の物件を訪れた時も似たような心情になりました。この時のことも私は日記に「空っぽになった店を見に行った、もううちの店ではない」としか書いていません。何を思ったのか、それが空っぽであれば書きようがありません。

 

40歳をすぎて驚いたことに、そういったことを忘れていくのです。記憶が人を形作ると思っていた私には非常に大きな衝撃がありました。何かを忘れても自分として確かに存在しているのは、はっきりいって奇妙です。そもそも、ある言語を学び始める前の感覚は思い出せませんが、学び進めていく途中の感覚は覚えています。学び始めたばかりの頃は何でもはっきりと聴こえません。大量に聴いてはダイアログを読んで、音声に慣れて、文字に慣れて、それでようやくだんだんはっきりと聴こえるようになります。どの言語もそうです。学んで使えるようになったころには、そのことばが聞こえなかった頃の感覚がありませんし覚えていません。もとの自分を忘れています。

 

毎日古い自分が死んで新しく生まれているのだという文が伝統的キリスト教にはあります。たぶん正教会カトリックルター派までしかこの発想はないかもしれません。これは教会暦というものがかかわっていて、1年・1週間・1日の中でイイススハリストスの生涯を追って経験するといった目的で作られています。つまり夜眠ったら「死」を意味し、朝起きたら「生」を意味するわけです。修道院だとこれが時課といって何時にそれにあたる祈りをやる、といった感じでもっと具体的になります。

 

もしかしたら、そういう意図ではないとしても、いつか自分の何かが失われるとき同時に自分の何かが新しくなるのかもしれません。言葉になるものは日記に書けるけど、ならないものは…どんどん失われてしまう、でもそれをそんなに惜しまなくてもいいのかな、と最近になってようやく思えるようになりました。